映画「しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE」はなぜオトナ帝国のように評価されなかったのか!?
こんにちは、たまこんにゃくです。
私は昔から「クレヨンしんちゃん」という作品が大好きです。
子供のころは友達と一緒に映画館に行くほどでした。
今では流石にレギュラー放送までは追ってないですが、映画はサブスクや地上波放送の時には欠かさず見ています。
そして2023年公開された「しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE」を視聴したのでレビューしようと思います。
本作は1993年に公開された「アクション仮面VSハイグレ魔王」から数えて31作目の作品であり、シリーズ初3DCGへ挑戦した意欲作でもあります。
実に制作に7年もかかったという秘話も明かされていました。
またシリーズ歴代最高興行収入を達成し、「こんなしんちゃん、見たことない」というキャッチフレーズで話題にもなりました。
実は私1年以上視聴していなかったのは理由があり、かなり評価が分かれる作品と聞いていたからです。
だから8月4日(日)午前10時に地上波初放送されるまで見ていなかったのです。
ちなみに地上波初放送直後の2024年8月4日11時45分から「ABEMA」で独占配信がスタートとなるので、地上波を見逃した方がいましたら視聴してみてください。
映画のあらすじ
物語の中心となるのは街頭でティッシュ配りをするアイドルファンの派遣社員である非理谷 充(ひりや みつる)です。
年齢は30歳で、名前はまんま「非リア充」をもじっていることからもわかるように私生活は充実してるとはお世辞にも言い難いです。
そんな彼にも唯一の心のよりどこりである推しのアイドルがいました。
しかしそのアイドルが結婚を発表したことにショックを受け、さらには強盗と同じ服をだったことから濡れ衣を着せられて絶望していました。
時を同じくしてノストラダムスの隣町に住んでいたヌスットラダマスが「20と23が並ぶ年に天から2つの光が降り、世界に混乱がもたらされる」と予言していた通り、2023年に宇宙から二つの光が地球めがけて接近していました。
その内の白い光が命中したしんのすけと黒い光が命中した非理谷は超能力を手に入れ、非理谷は世の中に対して復讐を始めるのです。
一方しんのすけも最初は運動会や片付けなどで能力を開花し始め、やがてふたば幼稚園で立てこもった非理谷と対峙していくことになります。
「弱者男性」といういわばトレンドになりつつある重いテーマを扱った作品
クレヨンしんちゃんと言えば下品なギャグアニメという印象が強いと思いますが、現代では家族愛をテーマに打ち出した作風に変わってきています。
特に映画では感動をウリにした作品が度々話題になっており、9作目の「嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」や10作目の「嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦」、22作目の「ガチンコ! 逆襲のロボとーちゃん」などが特に評価が高いことで知られています。
子供の付き添いでしぶしぶ見に行った大人たちが、上映後は泣きながら映画館を後にするなんて光景が見られたのものです。
そういえば私の幼馴染がクレヨンしんちゃんが好きだったのですが、見てると親に止められるって話を思い出しますね。
親をバカにしたり下品だからというのが理由ですが、確かにそんなシーンはあります。
だけど幼いながらに私はその幼馴染の親や、PTAに対して物語の本質を全くわかってないなと思っていました。
ちなみに私が一番好きな作品は4作目の「ヘンダーランドの大冒険」ですね。
やっぱしんちゃんの映画はアクション仮面とカンタムロボとぶりぶりざえもん呼んでオカマと戦わせとけばいいんじゃないかって思わせてくれる作品です。
そもそも今の時代でオカマを出せるのかって話は置いといてですが。
さて話を戻して本作のテーマですが完全なオリジナルではなく、単行本26巻収録の番外編「しんのすけ・ひまわりのエスパー兄妹」を基にしています。
そして原作が発売されたのはそれこそオトナ帝国と同時期の2000年の頃なんです。
当然当時はいわゆる「弱者男性」なんて言葉はなかったし、あえてリメイクで題材に取り上げたからには社会風刺に対して切り込む覚悟があったからだと思います。
うまく料理すれば感動できる名作になりえた素材だと思うので、惜しいなという気持ちが強いですね。
なぜ本作は名作となれなかったのか
<出典:『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』公式サイト (shinchan-movie.com)>
正直に私の意見を言わせてもらうと、思っていたよりも面白かったです。
3DCGで描かれつつもデフォルメされたギャグシーンやアクションシーン、それに迫力のロボットなど見所はありました。
でもそれは私が公開1年経過して世間の評価も大方「駄作」であるという前提の中、さらには無料で映画を視聴したからもあるでしょう。
公開当時に何の先入観も持たずに見ていたら同じ評価を下せなかったと思います。
なぜなら公開前から重いテーマを扱い、おそらく感動系に持っていきたいんだろうなという作り手の意図が読み取れたこと。
もしかしたらオトナ帝国を超える名作を超えるんじゃないかという期待感があったからです。
もちろん歴代屈指の名作であるオトナ帝国と比較されるのは、非常にハードルが高いことです。
だけどそれに匹敵する作品を生み出せるポテンシャルはあっただけに、残念な気持ちの方が強いのです。
ではなぜ本作が名作になれなかったのかの要因を深堀していきたいと思います。
オトナ帝国と比較したメッセージ性の薄さ
本作のテーマはいわゆる「弱者男性」のステレオタイプである非理谷に対して更生させる物語になります。
だけどそれを諭すひろしのセリフが納得できない部分でありました。
1990年(平成2年)に連載開始したクレヨンしんちゃんはいわば平成を代表するキャラクターです。
当時は核家族化が進んできており、バブルの崩壊もあり日本の将来に不安を抱える人も多くいました。
野原一家は当時の家族体系として一般的であり、社会全体の風刺として21世紀に対して期待が持てない風潮が出来上がっていました。
だからオトナ帝国の敵組織である「イエスタデイワンスモア」が掲げた1970年代の「希望に満ちたあの頃」である昭和に戻ろうとする取り組みは視聴者の大人に刺さったのです。
だけどそれに対して野原一家は今を生きる平成に対する希望を主張して見事勝利してみせました。
オトナ帝国の終盤のシーンでしんのすけが東京タワーを30秒間ずっと走り続けるというシーンがあります。
あのカット割りというのは重要であって、本当であればエレベーターでケンとチャコが上がっていくシーンとか間に合うかどうかの危機感を演出するのが一般的なのですが、ただひたすらしんのすけの走る姿だけを映しています。
あれは昭和に戻りたいというケンとチャコにも感情移入している観客たちに対して未来を歩んでいきたいというしんのすけの味方にする必要があったからだと思います。
あのシーンがあったからこそしんのすけの「オラ、大人になりたいから」というセリフが一層際立ったのでしょう。
では本作ではどうでしょうか。
オトナ帝国の「昭和」と「平成」の対比として、「平成」と「令和」の対決になったわけです。
勝ち負けで決めるべきではないことはわかっていますが、最終的に野原一家を勝たせるのであれば将来に希望を持てない現代の若者に対して未来はいいものだぞって希望を与える必要があったはずです。
オトナ帝国の時に過去に戻りたいと言っていた「イエスタデイワンスモア」に対してひろしが言ったセリフである「俺の人生はつまらなくなんかない。家族がいる幸せをあんたたちにもわけてあげたいくらいだぜ」というセリフは納得感がありました。
では現在に対して失望している非理谷に対してひろしが言ったセリフは「頑張れ」だけなんです。
別に非理谷が頑張ってこなかったわけではないはずです。
これでどう納得できるというのでしょうか。
非理谷 充という敵キャラクターの設定の雑さ
原作でも非理谷に相当するキャラクターが存在しますが、名前の設定はされておらずリストラされた会社に普及するサラリーマンという役柄でした。
対して非理谷は令和の時代にリメイクするにあたって、ステレオタイプの一つである「弱者男性」の象徴となるキャラクターに設定されています。
幼いころは親が帰ってこない環境で、学校の行事にも参加せず、同じ生徒たちにもいじめられる環境が丁寧に描写されています。
大人になってからも派遣社員で決して高給取りと言える仕事についていなく、心の支えはアイドルだけ。
そのアイドルにも裏切られ、果ては強盗と間違えられ人生に絶望するというストーリーは違和感はありません。
ではなぜ雑かと言ってしまうと、しんのすけが非理谷の人生を追体験していく場面のことです。
しんのすけが非理谷の心情に寄り添い仲間としていじめっこを成敗していくのですが、本当にいじめっこを成敗することがこの人の幸せなのかという疑問が湧いてきました。
いじめも彼の人生に影響を与えた部分の一つではありますが、決してそれだけでこのキャラクターの人生を形成してしまったというわけではないと思います。
もっと根本の部分でこんな人物を大量に生んでしまった平成の時代の負の遺産に対しての絶望ではなかったのかと思えてしまえてならないのです。
それを大人になりたいと言って未来への希望を選択した野原一家が望んだ世界なのだろうかと感じてしまいました。
敵は非理谷ではなくこんな未来を生んでしまった平成の思想家に設定しているのであれば説得力はもっとあったのではないかと思います。
ひろしと非理谷の年齢の違い
当たり前ではありますが、アニメのキャラクターは設定以上に歳を取ることはありません。
サザエさんは1960年代後半、ちびまる子ちゃんや1970年代前半、ドラえもんは1980年代と時代を変遷してきました。
そしてクレヨンしんちゃんの時代設定は1990年前半で、比較的新しいあたしンちでさえ1990年代後半と現代基準で考えると過去の家族構成になります。
もちろんこれらの作品は正確に時代考察をしているというわけではなく、当時には存在しえないものが数々登場しています。
だけど家族構成としてはドラえもんの登場人物であるのび家が一番近く子供がいても一人っ子が多いです。
もっと言うと家族を持つ人ですら勝ち組なんて言われる世の中となりました。
そこで乖離が出てくるのはひろし(35歳)と非理谷(30歳)の年齢差がたったの5歳しかないことです。
ひろしが30歳の時には子供もいてマイホームもあったわけで、それで「君はまだ若い」と言われても現実感が湧いてきません。
それもそのはずひろしというキャラクターは1990年代の平成を生き抜いてきた人物です。
だけど漫画のキャラクターのため歳をとらない。
非理谷は現実に歳をとってきた視聴者であり、本来ならひろしとの間に30歳以上歳が離れているのが自然なんです。
そして頑張れと応援するんじゃなく、こんな平成の世の中にしてすまなかった。
俺たちも頑張るから一緒に戦おうという視聴者に語り掛ける存在であってほしかったです。
しんのすけが非理谷を友達ではなく仲間というなら、あの時大人になりたかったしんのすけが描いてきたその本来ならば大人になるべき年齢の世の中がどうなってしまったのかというオトナ帝国へのアンサーが欲しかったと思うのは私だけでしょうか。
まとめ
改めて言いますが私はクレヨンしんちゃんの作品が大好きです。
だからあまり悪い評価はつけたくはないのが正直なところです。
でも「嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」や「嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦」のような映画史に残る名作ができてしまったためハードルが無駄に上がってしまい、メッセージ性や感動にシフトした作品が出ることが多くなったと感じています。
もっと「嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード」のようなギャグに振り切った作品も見てみたいんですけどね。
そして2024年8月9日から公開された「クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記」も詳細な内容は避けますが賛否両論な作品となっています。
私としては最後もっとやりようがあったとは思いますけどね。
いつかまた名作と呼ばれる作品が出てくることを祈って本記事を締めたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。